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昭和29年4月に府中町・多磨村・西府村の1町2村が合併して府中市が誕生しました。市の史料
を調べた結果、現在の若松町域は多磨村の人見、常久と是政の一部であったことがわかりました。
(常久、人見、是政および道名をクリックでその詳細解説の項にジャンプします。)
上述しましたように、昭和29年に1町2村が合併して府中市が生まれましたが、多磨村については明治中頃(明治22年)に、江戸時代からの押立・車返・人見・上染屋・下染屋・常久・小田分・是政の8つの村が合併し一つになった村でした。そのうちの人見・常久・是政(一部)の三つの旧村が現在の若松町の地にあったということになりますね。しみじみと歴史を感じます。
現在の若松町3・4丁目の一部(人見街道沿い)に中心があった村落です。古く、人見の集落は浅間山の麓にあったと伝えられています。街道筋に集落を開いたのは近世以降とだそうです。幕末の地誌「新編武蔵風土記稿」には「民家五十八軒、府中路(人見街道)に並居す」とあります。地名の起こりは不明ですが武蔵七党の人見一族が来往していたという説があります。浅間山が遠くを見たり遠くからも望める格好の場であることから起こった名かも知れません。正平七年(1352年)に浅間山周辺で行われた足利尊氏と新田義興・義宗兄弟の戦いが有名な人見原合戦です。
現在の若松町1丁目の一部(旧甲州街道沿い)に集落の中心があった村落です。幕末の地誌「新編武蔵風土記稿」には「民家甲州街道の左右に並居、凡三十七軒とあります。もともとはは多摩川のほとりに集落がありましたが、洪水によって流され万治年間(1658~61)にハケ上に移動したと伝えられています。地名の起こりは、人名によるようで、古くは常久という人を名主とする名田であったようです。「新編武蔵風土記稿」には「村名の起こりを尋ぬるに、むかし常久と云し人居住せしによりて唱えしと云、今村内の農民嘉右衛門なるものはその孫なりと云」とあります。
この度、市の史料類を調べた結果、現在の若松町2丁目の西の一部が、古くは是政村に属していたことが知りました。是政は、現在の是政1・2・3丁目の一部に集落の中心があった村落です。古くは、横山村と呼ばれていたと伝えられています。幕末の地誌「新編武蔵風土記稿」には「民家百二十七軒」とあります。地名の起こりは井田是政という人名によるといわれています。地名に個人名が付いているのは中世の名田の名残で、是政が井田氏を名主とする名田であったのかもしれません。東京競馬場内にある井田氏の墓地から鎌倉・室町時代の板碑が出土しています。
甲州街道の名は、この道が甲州へ通じることに由来します。この道は、慶安頃(1648~52)に
開設された江戸と甲州を結ぶ幹線道、五街道の一つです。
(五街道とは)東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道の五街道。これらは江戸時代
の主要道路として道中奉行の支配下に置かれ、他の重要な脇街道を含め幕府の直轄地でした。
人見道(ひとみみち)の名は、この道が八幡宿から人見へ行く道だったことに由来します。
この道は、「こみとめ道」と合流して人見街道に通じています。
(こみとめ道)”こひとみ”(小人見=現在の府中基地内の旧地名)が訛って”こみとめ”に
なったのかもしれません。
この街道は、国府の府中から人見村、乗猪を経て大宮に行くもので、大宮街道、野州街道
とも云われます。また、府中、乗猪、豊島を経て須田の渡しからか下総へ行くのが下総街道
です。昔人見街道を通り、大宮の三宮氷川神社から神輿が人見村の御宿所まできて、そして
六所宮の国府祭(くらやみ祭)に参加したのです。